那須高原病院での入院生活
入院中、注射されたのは最初の1回だけです(インフルエンザの予防注射は除きます)。【強制入院です】と言われて、「A棟」と呼ばれている「個室」がある病棟(隔離病棟と呼ばれていたと思います。)に連れていかれた直後くらいに田口先生(先生と呼びたくないので、以後「田口」と呼びます)が来て「こういうところに入ったらなかなか出られないんだよ!」とか言いながら私の左肩に注射していきました。それが何の注射だったかは知らされていませんが、特別何ともなかったです。
A棟の「個室」に最初は入れられました。その個室には当然ですが、監視カメラが取り付けられていました。人にもよりましたが、冷たい目線を浴びせていく看護師さんもいましたね。私は特別何もしていませんが。それと寒かったですね。布団をかぶっていないと寒かったです。時期はおそらく11月くらいだったのだろうと思います。
「個室」に入れられてから1週間か、十日くらいでしたでしょうか。同じA棟ですが、4っつのベッドが置いてある大部屋に移されました。時々「****のばかー」(****は自分の名前・フルネームでした)とか言っている人がいましたが、話をしてみると「普通に会話ができる人でした」。おおかたこのA棟に入っていた人は「普通に会話ができる人」でした。
しばらくして、明らかに「変」という感じの人が一人来ました。人と人との間に割り込んできたり、私がそのとき座っていたパイプ椅子に乗ってきたりと、ただ「奇声」を出すとか「大声」を出すとかは無くて、無言でそんなことをしていました。ただその人は、その時見かけただけで、その後どこに連れていかれたのかは分かりません。
お風呂は週2回。入浴時間は「何時から何時まで」という決まりはありましたが、個人個人で入浴時間が管理されている・・・ということはありませんでした。・・・入っていようと思えばずっと入っていられましたが、人数が多いですし、お風呂自体がかなり小さめだったので、ゆっくりと湯船に浸かっていることはできませんでした。
食事の時間は皆すごく速かったですね。私はおおよそいつも最後だったと思います。人によっては食べるのが遅いのを気にしているのだと思いますが、食べずらい食パンとかを(毎回)食べ残したりしている人もいました。食事の内容(味)ですが、不味くはなかったです。・・・好みもあるとは思いますが、「すごく美味しい」というものはありませんでしたが、「ちょっと美味しくない」ときと「ちょっとだけ美味しいかも?」という程度の違いは感じられたので「ちょっとだけ美味しいかも?」という食事のときは「ほんのちょっとだけですが、嬉しかった」かもしれません。
洗濯は「A棟」の人は良く分かりませんでしたが、後で述べる「C棟」にいた人たちは自分でやる人がほとんどでした。A棟では洗濯機が2台設置されていました。乾燥機も2台あったと思います。干す場所は病棟の裏側に物干し竿が何本かあって、最初のうちはそこへ自分で引っ掛けに行きました。扉の鍵を解錠してもらって外に出ることになるので、看護師さんにお願いして開けてもらっていたと思います。一応干しに行く時間と、取り込みに行く時間は決まっていましたが、それくらいの時間に看護師さんに申し出れば対応してくれました。しかし、そんなことをしていたのも本当に最初のうち(せいぜい数日くらい)だけで、いちいち看護師さんに申し出て扉を開けてもらわなければならないのと、突然雨など降り始めてしまうととても面倒で「やってらんない」というのが現実でした。・・・で、どうしていたかと言いますと、周りの人はベッドの足元とか窓の鍵の部分などのハンガーを(なんとか)引っ掛けられるところに引っ掛けて干していました。なので、私もそれにならいまして、ベッドの足元のところに引っ掛けることができたので、それからはそうしました。
その他、「患者」さん(いちおう病院なのでとりあえず・・・です)に対する看護師さん達の対応ですが、少なくとも「私」に対しては悪くなかったと思います。ただ「私に冷たい目線を浴びせていった看護師さん」は、・・・まぁ、だいたいそんな感じでした。
「患者」さんに対して看護師さんが【いじめ】とかしているということは無かったと思いますし、話も聞いたことはないです。
少し気になっていたのは、個室の床に敷布団が敷いてあってその上で生活している人がいました。ただこの人はあきらかに「普通の感じではなかった」ですし、「動きも遅い感じでした」ので、そんな感じの扱いになっていたのだろうと思います。
「トイレ」についてですが、小学校の頃に学校の先生が「精神病院のトイレには鍵が付いていない」ということを言っていたのを聞いていたので、「聞いていた通り」という感じでした。気になるのは「清潔感」だと思いますが、割と奇麗だったと思います。トイレットペーパーが切れていたり、なぜか紙おむつが便器の中に入っていたりしたことがありましたが、看護師さんに言えば対応してくれました。
「娯楽」についてですが、人によっては電池式(コードのようなひも状のものは持ち込み不可)のラジカセで音楽を聴いている人はいました。あとは食事をする部屋(2つ)にはそれぞれ1台、20~40インチ程度だと思うのですが、数人程度で近寄ってみれば観れる程度の大きさのテレビが設置されていました。おやつや飲み物(ジュースやお茶)などは食事をする部屋であれば自由に飲食できました。ただ患者間での「やりとり」は(一応)禁止されていました。まぁ「やりとり」したところで看護師さんにさえみつからなければ、特に誰かが看護師さんに告げ口をするというようなことはありませんでした。
「患者」さんで気になることを言ってくる人はいました。「誰だれはあれをやっても注意されないのに、俺がやると言われるのは不公平だから(看護師さんに)言ってきてくれないか」みたいなことをしばらくの間、繰り返し同じ人(患者)に言われたことがありました。私はそれに対して(面倒なので)いい加減な返事をするだけで、相手にはしませんでした。
飲み物の自販機が1台設置されていました。「ジュースカード」というものをあらかじめ購入しておいて、飲みたいときにそのカードを使って購入する感じでした。
「娯楽」と言えるかは少し疑問ですが、入院させられてからしばらくして(1カ月くらいだったかもしれません)から、外出許可カード(名称は不正確かもしれません)というのが出ました。外出と言っても病棟から出て、院内散歩ができるという程度のものでしたが、何の楽しみもなく、ただ寝て起きてたいして美味しくもないご飯を食べて・・・、という感じの生活をしていると、こんなことでも気晴らしになりました。何より外の空気を吸えるというだけでも気分がよかったと思います。
それと「美味しい」といえば、おやつの時間に「カップやきそば」とか食べている人が結構いましたが、病院食と比較すると「かなり美味しく感じられる食べ物」だったと思います。ちなみに何故「カップやきそば」なのかは分かりませんが、「カップラーメン」を食べている人と比べるとずっと多かった(人数的に)と思います。それとついでなのでここに記しておきますが「C棟」(後述します)にいた患者さんの中には「ご飯のお供」として自前でちょっとした「おかず」を用意していました。その中で人気があったのは「納豆」「海苔(の佃煮)」「なめ茸」あたりでした。(ナースステーションの)冷蔵庫に入れる必要があるものについては、名前を書いて看護師さんに預ければ看護師さんの方で管理してくれました。いつだったか親切(?)な患者さんが海苔の佃煮を少し私のご飯の上に乗せてくれたので食べたのですが、やはり味が濃く感じられて美味しかったです。
那須高原病院での1日の生活の流れは、およそ以下のような感じでした。
1日の生活の流れ
6時 起床(検温) 8時 食事 9時(?) ラジオ体操 & 自室の掃除(床拭きとリネン交換) ~ 自由時間 ~ 10時くらいに「おやつ」 (カップ焼きそばみたいな手間のかかるもので、自分で作れない人についてはこの時間帯であれば看護師さんが作ってくれました) (自由時間内に許可されている人は院内散歩も可能でした ) 12時 食事 13時 ~ 自由時間 ~ 15時くらいに「おやつ」 (自由時間内に、許可されている人は院内散歩も可能でした) 18時 食事 21時 消灯 (希望者がいれば22時までテレビの延長可能でしたので、遅い人は22時まで起きていられました) 「点呼」が1日に何度か(決まった時間に決まった回数)ありました。
いわゆる「自由時間」にすることが無くて退屈そのものでした。おおよそ「寝てる」か「散歩する」か「テレビを観る」か「ベッドに横になってぼーっとする」くらいしかありませんでした。本や雑誌などを持っている人はそれを見ている人もいました。私の場合、誰かと話をするとしても話のネタが無いし、元々そんなに会話をするタイプではないのでダメでしたね。
いつごろから始まったかは覚えていませんが「OT」(作業療法)と呼ばれていて、散歩に行ったりパズルや読書、編み物、録画してあるテレビ番組の鑑賞など、人によりやることは異なるのですが、ちょっとした「娯楽」みたいな感じにはなっていたと思います。私は「散歩」と「園芸」をすすめられて、それらを選択しました。
まず「散歩」ですが、散歩コースがいくつか決められていて、参加者の多数決でコースが決められました。「散歩」には作業療法士の方(たぶん2人)が付き添いました。毎回だったわけではありませんが、散歩途中の休憩時間に「甘い」コーヒーなどを振舞ってくれることもありました。およそ病院食は「あまり美味しくない」ことが多く、私は「おやつ」もほとんど食べることがありませんでしたので、たまに振舞ってくれる「甘い」コーヒーはすごく美味しく感じられました。また外の空気を吸いながら飲めるのも良かったですね。ちょっとしたことですが、すごく嬉しく感じられました。
それと・・・散歩中に困ったことがありました。それは「トイレ」です。男の人は(歩いている場所にもよりますが)まだいいんです。その気になればその辺の陰に隠れてできますので。困るのは女の人です。公園とか大きな商業施設等で利用できるトイレが近くにあるときはよいのですが、無いときは作業療法士さんに付き添ってもらって近くの民家にトイレを借りにいった人もいました。それとこれはもう黙認するしかないのですが、散歩中に突然パンツを下ろして「大」をしてしまう人がいました。これはもうどうしようもないですよね。もう「知らないふり」を決め込むしかありません。でも付き添っている作業療法士さんはそうもいかずに、ティッシュを渡したりしていたと思いますが、よく覚えていません。ちなみにその「大」をしてしまう方というのは常にOTに参加されている人ではなくて、見かけたことのない「新顔」でした。「大」をしてしまった人は何人かいらっしゃいましたが、同じ人だったかどうかまではわかりません。少なくとも私には、見かけたことのない「新顔」の人に見えました。
次に「園芸」ですが、これは病院内の隅っこの方にちょっとした畑がありまして、そこに野菜の種を撒いたり苗を植えたりして、育ったら自分たちで食べるか病院内の職員の方に販売したりしました。野菜の種や苗、肥料などは近くのお店へ皆で(歩いて)買いにいきました。荷物が多くなることが多いので、そんなときには車で迎えに来てもらっていました。内緒なのですが、結構歩くので帰りに作業療法士さんが(個人のお金だと思うのですが)ジュースやスポーツドリンク等をご馳走してくれました。
職員の方に販売した分の利益(お金)は一応自分で管理ということになるんだと思いますが、(過去の分も含めて)計算し、封筒に入れて作業療法士さんに預けていたと思います。皆がある程度(2千円くらい)たまったら、回転ずし屋さんなどに(市営バス等を利用して)行って昼食を食べたりしました。回転ずしの他は牛丼屋さんに行った記憶があります。あとは近くのスーパーへ買い物に行って病院内ですき焼きをして食べたこともありました。・・・ですがこれ、私が退院した後は(他の人も何人か退院したこともありますが)、徐々に衰退して現在(当時)はそこまでやっていないと、通院で病院へ行ったときに会った作業療法士さんに聞きました。
隔離病棟のA棟に「患者」として入っている人たちは、私からすると「あきらかに変」という人はいませんでした。ほとんどの人は、せいぜい「ちょっと変かなぁ(?)、でも話をすればちゃんと会話できるしぃ~、通じるしぃ~」みたいな感じでしたね。本当に「隔離するほどの必要がある方たちなんですか!?」というのが正直な感想です。もちろんその中に「私」も含みますよ!。
A棟にいたときの担当の先生について書いておきます。担当は田口ではありませんでした。名前は伏せます(というか・・・思い出しそうで思い出せません)が、比較的若い方でした。看護師さんの話では「優秀」らしいです。その先生の初めての診察のときに「注射がいいですか?」、「飲み薬がいいですか?」と聞かれたのですが、私からすると【勝手に「強制入院なんです!」とか言って入院させたくせに、何言ってんだこいつ・・・】というのがそのときの正直な私の感想です。で、答えないでいたら「選ぶこともできませんか?」とか言われました。腹がっ立ったのでそのまま黙っていたら診察が終わりました。A棟にいたときの担当の先生はずっとその方でした。
およそ3カ月くらい(だったと思います)経って、診察のときに【室井さんが一番調子がいいです。病棟を移します。】みたいなことを言われました。私としては【何でもないんだから一番調子よくても当たり前だろ!】とか思いましたが、特に言いはしませんでした。
・・・というわけで、その後1週間くらい経った頃だったと思いますが、「C棟」と呼ばれる「開放病棟」という病棟へ移されました。
C棟へ移されて、6人部屋になりました。C棟は「開放病棟」と呼ばれていますが、その理由は「自由時間」の間だけですが、病棟の両端の扉の鍵が解錠されて自由に出入りすることができたためです。
C棟に移されてからの担当医師は田口になりました。いつ頃だったか覚えていませんが、副作用が起こりました。口(下あご)がカタカタ震えてしまって止まらない状態になりました。グッと力を入れて噛みしめると震えが止まる程度でしたので食事をするのに困ることはありませんでした。診察のときに田口にその話をしたら、薬を変えてくれましたが、「副作用を起こすような薬を処方するって医者としてどうなのよ!?」と思います。
次は「歯」について、です。私は若いころ(いや今でも大して変わらないかもしれませんが)は、かなり不精(ぶしょう)でして、普通の安いハミガキをしばらく使っていると歯が痛くなったりしていました。で、ずっと使っていたのが「シュミテクト」というちょっとお高いハミガキでした。これだとなぜか痛くなることはなかったです。一応「知覚過敏用」と書いてある商品でしたので選んでいたのもありますが・・・。病院に入院してからは自分で買いに行けない(病院の売店に売っていない)ので、面会のときに親に買ってきてもらっていました。
入院して始めの頃は親が持ってきてくれた(比較的安い)ハミガキを使っていたのですが、やっぱり「歯」が痛くなりました。そんな感じでしたので先に話した通り、親が面会に来たときに頼んで次の面会のときに「シュミテクト」を持ってきてもらいました。・・・ここまでの話はA棟にいたときの話です。
C棟に移されてからしばらくして、歯に異変が起こりました。最初は歯痛(かなり痛い)でしたが、まだこのときは我慢できる程度でした。しばらくして食事をしているときに「バキッ」と音がして、何だろうと思って洗面所の鏡で見たら前歯が折れていました。1本くらいならまだよかったのですが、立て続けに3本くらいダメになりました。ですが、自分ではどうしようもないのでそのままにしていました。
歯が余りにも痛いときには、看護師さんに話をして鎮痛剤を処方してもらうこともありました(処方自体は先生の判断が必要なため、話をしたらすぐ処方してもらえるものではありませんでした)。しばらくして歯のチェック(検査)がありました。そのときに「歯医者さんに行った方がいいです」ということを指摘されて近くの歯医者さんに行くことになりました。看護師さんには「いい歯医者さんにかかった方が・・・」と言われたのですが、親に送迎を頼まなければならなくなるのも嫌だったので、「近くの歯医者さんでいいです」と伝えました。近くの歯医者さんは「上手」な歯医者さんではありませんでした。そう思う理由はいくつかあるのですが、その中のひとつとして作ってもらった差し歯がすぐにボロッと取れてしまいました。付け直してもらってもしばらくすると同様でした。その歯医者さんは「歯ぐき(土台だったかな?)が弱っているからとれちゃうんですよ~」とか言っていました。退院後ですが、また差し歯が取れてしまったので別の歯医者さんにみてもらったら、「これじゃダメだよ~、これじゃすぐとれちゃうよ~」と言って、原因を説明してくれて、新しい差し歯を作ってくれました。その差し歯は今でも付いています。もちろん取れてしまうようなことはありません。それと、「前」の「歯医者さん」に行ったときですが、「神経」に注射されました。注射するときに「覚悟してくださいね」と言われたのですが、差されたときにめちゃくちゃ痛くて「痛い痛い」と思わず(口は少し開けたまま)言ってしまいました。でも、歯医者さんって神経に(わざわざ痛いところを狙って)注射することあるんでしょうか?。過去に「神経に注射された」という話を聞いたことはあるのですが・・・、どうなんでしょうか?。ちなみに現在利用させて頂いている歯医者さんでは、そのように「痛い」ことをされたことありません。
年はいくつか聞いたことなかったのですが、当時(私が見た感じですが)「若くても60歳は過ぎているだろうな」と思うようなおじさんがいました。このおじさん、周りに人がたくさんいるときは、よくおしっこを漏らしたりして周りから「ひんしゅく」を買っている感じの人でした。ですが、私と2人で話をしているときは、まったくそんな感じの人では無くて、しっかりとした口調でいろいろな雑談をしてくれました。なので、なぜ周りに人がたくさんいるときに「あんな感じ」になるのか不思議でした。まぁ、おそらく「わざとやってる!?」としか思えないのですが、ひょっとするとその辺が精神的なものでそうなってしまうのかもしれませんね・・・とも思います。
そのおじさんと2人で話をしているときの話の内容に関しては、嘘は無かったと思います。その話の中で「田口が亡くなった」という話も聞きました。他の誰かから同じ内容を聞いたことはありませんが、そのおじさんが嘘を言ったことはそれまでなかったので「きっと本当なんだろうな」と思っています。ちなみにその話を、私の親が面会に来たときにしたら驚いていました。その後、担当医師が代わりました。担当医師が代わる理由については聞いていませんでしたがおそらく上記のような理由なんだろうと思っています。その代わった担当医師がそれ以降、ずっとお世話になった(なっている)先生です。
ちょっとした楽しみがありました。那須塩原市で花火大会があるときに、病棟の食事をするところでカーテンを開けるとちょうど奇麗に見えたんですね。あれはよかったと思います。
病院でやってくれたイベント(些細なものも含みます)は、覚えているだけでも以下のようなものがありました。
・けんちん汁を皆に外(病棟外)で振舞ってくれました。入院させられて初めての病院食以外の食べ物(いや、飲み物かな?)でしたので、すごく美味しかった記憶があります。お代わりは自由でした。折角だったのですが、1杯でもそれなりの量があったため私はお代わりを断りました。
・バーベキューを何度かやってくれました。病院食に比べると味が濃くて、すごく美味しく感じられました。
・「スイカ」割りもありました。私は観ていただけでしたが、そんなイベントもありました。ちなみに割ったスイカを少しもらって食べたかもしれません・・・が、よく覚えてないです。
・その他、「お祭り」(盆踊り)とかありました。病院の関係者の方が出店を出してくれて、あらかじめ購入していた食券で食べることができました。どれくらい食べられるのか・・・自分でもよくわからなかったのですが、食券を購入するときに看護師さんが「これくらい」と何となくですが教えてくれていたと思います。「盆踊り」は何となく前の人が踊っているのをマネしながら「てきとー」に踊った記憶があります。ああいうのも結構楽しいのではないかと思いました。
・少し気になったのは、このようなイベントがあっても参加できるのは「自分の足で歩くことができる人」だけでした。C棟には「車いす」の人が多くいたのですが、その方々はせいぜい玄関付近に出て外の空気を吸う程度だったと思います。・・・でもまぁ、仕方ないですかね。あまりいろいろ求めてしまいますと面倒をみなければならない看護師さん達も大変になりますし・・・。
話は変わりますが、「東日本大震災」発生時、私はC棟のトイレ(個室)で座っていました。地震が発生してすごく揺れたのですが「怖い」という感覚はまったくなくて、「すごい揺れ!」くらいに思っていました。揺れが収まって少ししたときに看護師さんが回ってきて「誰かいますか~」と聞いてきたので「はい、居ます」と返事をしました。皆、外に避難していることも聞きましたので、すぐに個室から出て避難を始めました。C棟には車いすを利用されている方が沢山いたのですが、非難するときに「車いす」の方の1人を押しながら非難しました。私はかなり雑なところがあるのですが、ひょっとすると坂道とか、押されている方は怖かったかもしれませんが、緊急事態ということで勘弁してください・・・という気持ちでした。
地震発生直後、天気は良かったので日差しがあるうちはまだ良かったのですが、日が落ちて寒くなってきたときに困ったのが、「暖を取る」ことでした。まだ寒い時期でしたし、病棟の暖房は使えない状態だったのですごく寒かったです。
どこからか看護師さんが大きなストーブ(電気不要)を用意してきてくれたので、助かりました。ただそのストーブを利用していたのはせいぜい数人くらいだったような気がするので、他の人はどうされていたのか・・・覚えていません。自室で布団に入ったりしていたのかもしれません。
地震発生直後、食事はどうしていたかと言いますと、普通に出たと記憶しています。ただその内容は「おかゆ」とかで、とても満足できるようなものではありませんでした。それでも「空腹」であるには変わりありませんでしたので、食べられるだけでも「ありがたかった」と思います。そんな感じでしたので、地震などの災害発生時にはまず「暖を取ること」、電気は使えないので電気を使用しないで使えるいわゆる「ストーブ」が必要と思いました。
次に「食事」ですが、それ以前に重要なのが「水」の確保と節水です。水道が使えなくなれば水は出ませんので、どこからか運んでこなければなりませんが、「水」はかなり重たいので運ぶのも大変です。そのため使う水をできるだけ少なくするように工夫(節水)する必要もあります。この工夫(節水)にはある程度の知識と経験が必要だと思います。私は「ただの入院患者」でしたので、この辺に関しては病院側がすべて対応してくれました。「トイレ」については病院側がポリタンクに水を用意してくれて、それで流していたような気がします・・・が、よく覚えてないです。ごめんなさい。ですが、少なくとも「トイレ」で困ったような記憶はありません。
地震の影響で「病棟」の支柱など、ところどころにヒビが入ったりしているところがありましたが、とりあえず「使える」と(専門家が)判断されて、しばらくそのまま入っていました。その後、病棟をB棟に移されましてC棟は補修されることになりました。
入院させられてから半年くらいは運動とかしなくても、順調に体重は落ちていきました。ところが半年を過ぎたくらいから、ほぼ病院食しか食べていないのにもかかわらず体重が増えてきました。そんなとき、ある看護師さんに「運動したらどう?、(病棟の)廊下を散歩するとか」という感じの事を言われたので廊下を歩くようになりました。もちろん院外散歩が可能な時間は外を歩いてました。時間は午前と午後それぞれ1~2時間程度だったのではないかと思いますが、はっきりとは覚えていません。運動するようになったら、それまで増えていた体重がまた減り始めました。入院させられた当時、体重は80キロを少し超えていたと思うのですが、病院にいたときの最低体重は60キロ代だったと思います。
・・・というのが、那須高原病院での私の入院生活に対する感想などです。ある意味、貴重な体験でした。普通できないですよね、こんな経験。まぁ、A型事業所での仕事なども、そういう意味では貴重な体験でしたね。もちろん障害者が受ける「待遇」についても・・・ですね。
以上です。